「夏、駆け抜けてビー玉!」をふりかえる③

【③歌について】

まとめの前にこれだけは。

 

お芝居はもちろんのことですが、もうひとつ私にとって大きかったのが、ステージ上で歌を歌えたことです。

私にとって歌は、自己を解放するものであると同時に自己を抑圧するものでもありました。私が初めて抱いた将来の夢が歌手だったのですが、いろいろあった結果その夢を追うのをやめてしまって……。その後から自分の中に、「歌を受け取る側にはなれても届ける側には一生なれないんだ」とぼやく自分がしつこく居座っていて、ずっとその卑屈な気持ちに縛られていたように思います。諸々振り切ってでも挑戦すればよかったのに怖がってそれをしなかった、そういう私を私自身がいつまでも引きずっていたし、そういう私のことがすごく嫌いでした。歌は行き場のない感情を素直に出せる場所として何度も私を救ってくれましたが、歌う楽しさに触れて「今度は私が誰かに届けられたらなぁ」とつい思ってしまうたびに、なんともいえない虚しさも感じていました。

だから、大好きなビー玉座組のみなさんと一緒に「届ける側」として歌えたことがこの上なく嬉しかったんです。自己満足といえばそれまでなのですが、諸々振り切ってお芝居に挑戦してみたからこそあの景色を見られたわけで、それってうじうじもやもやするだけの自分からちょっとだけ変われたってことなんじゃないかなぁと。

「見つからない答えは自分の中に聞け」。会場にいる全ての方々に向けて歌えたこと、誰より嫌いだった昔の自分に向けて歌ってあげられたこと、生涯心に残る経験となりました。

これからもたくさん歌いたい!お芝居したい!時間をかけて鍛錬を重ねて、私が貰ってきた感動を、誰かに届けられる人になりたいです。

 

 

 

【④さいごに】

幸せな子と書いて「幸子」。この夏私はまさに幸子でした。サンリミットの御三方や座組のみなさん、そしてご観劇くださった皆様から沢山の幸せをいただきましたし、私は以前よりもほんの少しだけ、その幸せを恐れず受け取れるようになりました。

こんな私でも受け容れてもらえたことが、「こんな私」なんて言い回しはするなと言ってもらえたことが、私が本当に大切にしたかったものを恨んだり憎んだりせず心から大切にできたことが、もうただひたすらに嬉しかった。あんなにしおしおになってもうお先真っ暗だ〜とか思ってたのが嘘みたいです。お芝居や歌のスキルアップももちろんですが、人の間で私として生きていく喜びを実感できたことが何よりよい学びとなりました。

創り方、演じ方、本番でやりきれなかったこと、などなど後悔は多々ありますが……まるごと含めてはじめの一歩!とにかく踏み出したことに価値があったんだと、振り返ってみて思います。

この夏以上に揺らいだり迷ったり凹んだり、自分とバトったり和解したりをぐちゃぐちゃしつこく繰り返すんだろうけど、それでもお芝居をずっとずっと、死ぬまで続けていくと決めました。

 

自分史上いちばん熱くて、鮮烈で、苦しくて、眩しくて、愛おしい夏でした。

みなさま、本当に本当にありがとうございました!今後も全力で頑張ってまいりますので、よろしくお願いいたします!

「夏、駆け抜けてビー玉!」をふりかえる②

【②私の心と人とお芝居について】

今回は自分語りもりもりですよ〜!!!

サンリミットさん・ビー玉座組とのかけがえない出会い、お芝居を通して気づいたこと、救われたこと……思い浮かぶまま書き残していこうと思います。

 

 

まずはじめに書きたいのは、やっぱりサンリミットさんとの出会いですよね!

このご縁は、ビー玉の大切な仲間であり、バイト先のかわいい後輩である美里ちゃんが繋いでくれました。何度でも言うよ、美里ちゃんほんとにほんとにほんと〜〜〜にありがとう!!!!!!!!!!

彼女の紹介で「ピーマンのない回鍋肉」と「廻る木馬」を観劇いたしました。最高だった。最前列ど真ん中ボロ泣き女になってました。

ピーマンでは、ギャグからシリアスまで変幻自在のゆうかさん・ゆいさんコンビを見て、ひとが表現できるものの幅ってこんなに広いんだ!と感動したのを覚えています。

そして木馬では、美里ちゃんが可憐なヒロイン・彩として舞台上で懸命に生きる姿を見て、ものすごく刺激を受けて……あぁ表現したい、という衝動を感じたんです。もうとにかく私もお芝居をやりたい!と強く強く思って、そのことを美里ちゃんに話したら、「じゃあやってみませんか花蓮さん!」と。そんなこんなで萌先生のご連絡先を伺ってメッセージをお送りし、次公演のお話をいただき、気がついたら幸子になってたというわけです()

 

右も左も分からない私を快く迎え入れてくださったサンリミットさんには、感謝しかありません。はじめの頃は(当たり前っちゃ当たり前なのかもしれませんが)思い出すと鳥肌立っちゃうくらい酷いお芝居だったと思います……が、サンリミットの御三方が優しくご指導くださったおかげで、楽しみながら成長することができました。

貴也さんは私の言わんとするところを演技の中からしっかりとキャッチして、いいところをたくさん褒めつつ的確な指示・ご助言をくださいました。真衣さんは、お稽古がスムーズに進むよう事務処理を確実に執り行いながらも、演技面では目線や身体の動きなど客観的でわかりやすいアドバイスをくださいました。萌先生は、いつも明るい笑顔とポジティブな言葉で、自信を持ってお稽古に臨めるよう支えてくださいました。本当に恵まれた環境でお芝居を始めることができたなぁ、と、振り返ってみて改めて思います。

貴也さん、真衣さん、萌先生、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします!

 

 

こんなに素敵な場所でお稽古ができるなんて、私は幸せ者です。

にも関わらず!実は!

4月に入ったあたりから、私は人生一と言えるほど爆病みしておりました!

お仕事、家庭、自分の在り方などなど、諸々考えるところがありまして、言ってしまえば生きること自体がものすごーーーくしんどくなってました。喉元過ぎれば何とやらで、今思えば強烈な独りよがりだったんだと思いますけどね!でも当時は本気で、「今が潮時……人生の引き際か……」な〜んておばかなことを毎日毎日考えては泣き、寝られず起きられず食べられず笑えずの踏んだり蹴ったりライフをよろよろ歩んでいたのです。自分は忌わしい存在だ、自分がいるから周りが不幸になる、一刻も早くこいつを抹消しなければ……みたいな強迫観念が脳裏にこびりついて、自分のことがどうにも嫌いで嫌いでしょうがなかった。

そんな中でも、お稽古に行くと気持ちが軽くなったし、お芝居をしている間は楽しむことができていました。

ただ……5月あたりから、自分嫌いの自分が、唯一の居場所だったお芝居にまで踏み込んできやがりまして。正直あんまりこの辺りの記憶がないのですが、たしか自分のありのままの感情がまるごと分からなくなって、表現をしようにもそのエッセンスが全く掴めない状態になってしまってたんだと思います。本当にからっぽでなんにもできなくなっちゃって、でもお芝居という居場所を絶対失いたくなくて、ここに居させていただくためにはとにかく正解を出さなくてはいけないと思い込んで、いつの間にか楽しむことよりも、じょうずに成立させることばかりを考えるようになっていました。

 

そんな私の視界を広げてくださったのは、サンリミットの御三方と共演者のみなさまでした。

「やりたいようにやってごらん」「大丈夫だよ」「元気出して」「花蓮さんの幸子が好きです」「一緒に駆け抜けましょう」「しんどかったね、がんばったね」「楽しめばいいんだよ」「安心してもっと任せて。ちゃんと見てるから」

みなさまからいただいた温かい言葉たち、ひとつひとつ覚えてます。(ちなみに、いただいたジュースも珈琲もお菓子も塩分補給タブレットも焼きおにぎりも覚えてます())

共に舞台を創り上げる者のひとりとして認識してもらえている、見てもらえていることが、どれほど心強く嬉しく幸せだったことか。「もしかして、自分を傷めつけながら正解を出さずとも、私はここにいていいのかもしれない」みなさまと創るお芝居がそう思わせてくれました。

みなさまの温かさに触れるうち、殻に閉じこもって何も見ていなかった自分に気づきました。ちゃんと見てもらえていると感じられたからこそ私も少しずつ見ることができるようになっていったんです。見たい、と思えるようにもなりました。今私が、もっともっと色んな人の色んな世界を見てみたいと思えているのも、ビー玉座組のみなさまとの出会いがあってこそです。

こんな私のことを、ありのまま受け容れ、関わってくださったみなさま。どれだけ感謝してもしきれません!ありがとうございました。

 

 

お芝居と、優しさ溢れる素敵な人たちとの出会いは、現在進行形で私の人生を豊かにしてくれています。

勇気を出してお芝居を始めてよかったと心から思うし、私のお芝居のはじまりにビー玉があるということが、嬉しくって仕方ないのです。

 

 

クソデカ激重感情をぶちまけたところで、今回はおしまい。次回まとめをします!……まとまるのかな……

「夏、駆け抜けてビー玉!」をふりかえる①

「夏、駆け抜けてビー玉!」公演から、今日で早くも1ヶ月。

終演直後、感慨にゆっくり浸る間もなくお仕事の渦に飲まれまくり、さらに言葉を探すのに膨大な時間を費やしてしまう性分も相まって、振り返りがとんでもなく遅くなってしまいました。さっそく反省。ビー玉座組のみなさん、今度会ったら「おせーーーよ!!!!!」ってアッパー食らわせてやってください。

それでもちょこちょこ書き連ねてきましたので、読んでたのしいものかは分かりませんが公開してみようと思います。

 

念のため注意〜!

・ここに書いたことはあくまで私が個人的に考えていたことの振り返り/備忘録なので、演出サイドとの爆烈解釈違いとかあるかもしれないです()

・長い長い長い!!!!!とにかく長いです!!!!!ここだけは強調しておかなくちゃならん、長いです。薄目でお気軽に、ふ〜〜〜んってお読みいただければ嬉しいです。

 

*****

 

【①幸子について】

まずはこの夏をいちばん近くで共に過ごしてくれた、幸子について書いていきます。

 

 

幸子への第一印象は、ズバリ「変な子」。

幽霊なのに怖ろしさをまったく感じさせない。登場してすぐ初絡みのケンイチとコントみたいなやり取りかます……怖いどころか、ケンイチをどんどん自分のペースに巻き込んでいく様がとっても面白くて。たぶんすごくマイペースで変わった子、独特な世界観を持った子なんだろうな〜と思ってました。

ただ、「変わってる」というのは私自身が周囲に言われ続けてきたことでもあるので、その点では登場人物たちの中で一番親近感を持ちました。はじめて台本に目を通したとき、幸子とはいい友達になれそう!って直感で思ったんですよねぇ。

 

とはいえ、台本をいただいたばかりのころは幸子の性格がなかなか掴めなかったんです。本格的にお稽古が始まるまではとにかく家で幸子のセリフを何度も声に出して読み、自分の中で「いちばんしっくりくる瞬間」を探していました。

並行して台本の文字からもヒントを抽出して、幸子がどんな子なのか自分なりに考えていきました。

初めて話すケンイチにしっかり敬語を使っている

変わってるけど常識人ではあるよね、礼儀正しいんだな、なんとなく育ちがいい感じするな

ケンイチに結構ぐいぐい取り憑こうとする

人懐っこくて人見知りしないタイプか、基本的に人間と関わるのが好きなんだね、家族や友達からの愛は充分にもらってきたっぽい

生涯一度の恋を一途に5年温めていた

む、無垢だ……恋愛に関しては知らないことだらけで、だからこそTHE・夢見る乙女〜みたいなところがあるんだな

「大丈夫」ってめちゃくちゃよく言う

つい口をついて出ちゃうんだ、優しい子なんだなぁ、ひとに大丈夫でいてほしいと望んでるんだな

……みたいな。

それをもとに、お稽古が始まってからは演出サイドのみなさまからご意見をいただいて、がらっと変えたりマイナーチェンジしたり変えずに活かしたり。幸子の輪郭が少しずつはっきりしていく過程が面白かったです。

お稽古を重ねるごとに、私の中で幸子が体温をもったリアルな存在になってきて(いや死んでるから体温も何もないけど)、役をいただいてつくっていく醍醐味はここなんだろうなぁって感じながら過ごしていました。共演したみなさまの中には、私が心の中のイマジナリー幸子と喋っているやべぇ光景をよくご存知の方も多いと思います()  公演が終わった今でも、幸子は私の大切な相棒です!

 

 

お稽古が中盤に差し掛かったあたりから、幸子の心にもう一歩踏み込んで、彼女のどんなところをお客様に観てほしいか考え始めました。決まった軸はふたつ、「幽霊らしくない存在感」と「幽霊らしくない存在感のゆらぎ」です。

 

まず前者について。

オーディションのときは細い声にしたりゆっっっくり話したりと、ことさらに幸子の「幽霊らしさ」を強調していました。でも、お稽古の中で貴也さんから「幸子は幽霊なのに生き生きしているから面白い。幽霊らしくないところを見せていきたい」と伺って、幸子の演じ方をかなり変えたんです。

考えてみると、幸子って底抜けにポジティブな人間なんですよね!だって、自分が死んでることを「棺桶があったら入りたいくらいです」とか言っちゃえるくらいには受け容れてるんですよ!?彼女は自分の死すらも自分のアイデンティティにしてしまう、あっけらかんとした強さを持っている。だからこそ幸子は、幽霊なのに生き生きしていて、他の登場人物たちに負けない存在感を持っているんだと思います。まずはそこを幸子の基盤として観せよう、と決めました。

 

次に後者について。

"幽霊なのに"抜群の存在感を放っている幸子は、明るく過ごすのが上手な、本当に可愛くて賢い子です。

でもそのぶん、張り詰めた糸がふと撓んだ瞬間にだけ、彼女の存在の根っこがゆらいでしまうのかなぁと思ったんです。

それこそ"幽霊のように"透けて消えてしまいそうな、頼りなくか細い不安定な想いが彼女の中にはあって、彼女はそれをあっけらかんと認められはするのだけれど、自分で認めただけではどこか満たされない。だから成仏もできない。幸子の儚げな美しさは、ここから生まれるんだと思います。

"大丈夫"ではあるけど、"幸せ"ではない」……幸子は幽霊になってから、ずっとそんな状態のまま過ごしてきたんじゃないかな?

で、ケンイチは幸子のこういうところを近くで見てなんだか胸がきゅっとなってこの子の役に立ちたいと思って、そうやってだんだん彼女に惹かれていったんだろうなぁ……と。

主人公との関わりやストーリーの流れも含めて、この「ゆらぎ」は特にちゃんと表現したかったので、最後までこだわり抜きました。

 

 

また、演じていく中で、幸子はひとのために何かしたい、ひとに元気でいてほしいと願う気持ちが強い子なんだと感じました。同時に、それがケンイチとの共通点であることにも気づいて。そこからケンイチと幸子の関係性について、たくさんたくさん考えました。彼は唯一幸子のことが見える人ですからね!

 

ケンイチも幸子も「ひとが見える人」であり、「ひとから見えない人」であり、「ひとから見てもらいたかった人」なのではないかなぁ……と考えていました。

ケンイチはひとの役に立ちたいと願いながらも空回りしてしまう不器用な人ですが、おそらくその願いの根源は「見える」ことと「見てもらいたい」ことにあるのではないかと思います。ひとの苦労や辛さ悲しみを敏感にキャッチできる=「見える」からこそそのひとの役に立ちたいと思うし、役に立つことで自分を認めてもらいたい=「見てもらいたい」気持ちも強く持っている。ケンイチにだけ幸子が見えたのも、彼が「見える」人だったことと関係しているのかもなぁ……なんて、これは考えすぎでしょうか()

幸子は幸子で、初恋の相手を一途に5年見つめ続けて、見つめ返してもらえないまま亡くなってしまった。「見える」けど見てもらえなかったから、愛されたかった=「見てもらいたかった」が後悔の念となって、三途の川を渡れずにいるんだと思うんですよね。

こんなふうに、「ずっとひとを見てきた、ひとから見えない、ひとから見てもらうことを渇望する二人」だったからこそ、「互いを見つめ合う」ことができたんじゃないかなぁ。

……とまぁ、ここまでぜ〜んぶ私の勝手な深掘りなんですけれども……!!

それでも、この「見る」「見られる」ことへの意識は、幸子を演じ切るうえでものすごく活きた部分だと思ってます。

 

 

それと、「ひとを見ること・ひとに見てもらうこと」を考えた時間は、私自身の心にも大きな影響を与えてくれました。

このあたりのおはなしも今日載せようと考えてましたが、ちょっと……長すぎるので……つづきはまた明日。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!